略歴
生誕~舞踊家として出世
故玉城盛義は、明治22年12月20日、那覇区下泉町に生まれ、役者の父に就いて幼少から役者の道を歩み、明治・大正・昭和を通し、名役者として活躍を続けました。一方、組踊りの名人といわれて叔父玉城盛重の教えを幼少から受け、若い頃から既に名舞踊家として知られていました。又、彼は創作家としても異才を放ち、数々の創作舞踊を残していますが、中でも名作として知られる舞踊劇「戻り駕(かご)」は彼の手になるものです。
戦後の沖縄芸能の復興へ
昭和20年6月、盛義は米軍によって宜野湾村野嵩に収容され、翌7月に釈放されるとすぐに、沖縄では戦後初の琉球舞踊研究所を開設しました。又、米軍政府の命により結成された沖縄芸能連盟「松」「竹」「梅」三劇団のうち、梅劇団の副団長を務め、その傍ら、民政府芸術課演技官、劇団「ときわ座」の顧問、「乙姫劇団」の指導など、沖縄芸能復興のため積極的に活動しました。
晩年の活動と功績
さらに昭和28年3月、玉城盛義琉舞研究所を玉扇会として出発させ、以後、琉球古典舞踊の保存と継承に力を入れ、数多くの舞踊家たちを育てあげました。又、数々の受賞を重ね、昭和42年5月の沖縄芸能連盟結成では、その会長に推され、同年6月には琉球政府文化財保護委員会の指定する「組踊技能保持者」として認定を受けました。さらに昭和44年には、多年にわたる琉球芸能文化への功績により国から「勲五等瑞宝章」を授与されました。
しかし、昭和46年12月19日、83歳になった盛義は、沖縄芸能に偉大な功績とその名を残し、多数の弟子やファンから惜しまれつつこの世を去りました。